2017年9月24日


9月24日

久しぶりの日記。前回より随分と間が空いてしまった。

この約二ヶ月、珍しく私は仕事に没頭していた。

日記と向き合う時間が無く、書く気も起こらなかった。

「仕事のことばかり考え、他のことが手につかない」――こんなこと、今まではありえなかった。

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生活費のために私は働いている、仕事をしている。「仕事」と言うのも憚られる、アルバイトに近い感覚で働いている。お金をもらうため、安心を得るため。

高い志、達成したい目標……仕事にそういったものを抱くことはない。それでもよい、かまわない。それよりも大切なことがある。「毎月、二十万弱のお金が私の銀行口座に振り込まれること。おかげで私の生活が安定すること」――私にとって仕事とは、それ以上でもそれ以下でもなく、こんなにも大切なことはない。

給料が毎月入ることで、生活は安定し、私は一定の幸福を得るようになった。

友人たちと好きな時に酒を飲むことができる。高級なものでなければ、欲しいものをすぐに買うこともできる。光熱費の支払いが残高不足で遅れるということもない。コンビニの商品を特に高いとは思わないし、自販機でお茶を買っても、もったいないと思わない。定期的に歯医者に通っているが、その治療費を安く感じることさえある。大きな画面で動画をみたいから、という理由だけでiPadを買った。

そんな生活を送ることができている。まさかそんな生活を送るようになるとは、二十代の頃は想像もしていなかった。「きっと私は、月収十五万円程度で暮らしているだろう」と、そう思っていたし、また、それが自分とって相応しい生活だと思っていた。

しかし、三十代を迎えて、怖くなってしまった。お金のない暮らしをすることが。買いたいものが買えない、節約して暮らしていくことが。

質素な生活、そこから孤独を連想した私は、そんな毎日を「惨め」だと思った。そんな暮らしを「嫌だ」と思った。

安定した生活を送るために必要なのは、毎月の安定した収入。たったそれだけでいい。たったそれだけのために働けばいい。

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現在の仕事に就いて、約二年が経とうとしている。この二年の間、私は何も恐れることなく、安定した毎日を送っている。毎月貯金もしている。心に余裕があり、死にたいと思うことはもうほとんど無い。

「どうせなら、仕事している時間も有意義に、充実させてみたい」

生活の安定という低階層の欲求が満たされたことで、一段階上の欲求が芽生える。ただお金のためだけに働くのではなく、たとえば、目標のようなものをもって懸命に働き、成長や達成感といったものを味わってみたい。労働そのものを楽しんでみたい。

一時の気まぐれかもしれないが、「仕事に熱中する」、そんな働き方がもし私にもできるなら、どれほど充実した日々を過ごせるだろう。それは私にとって一種の憧れではあった。

最近はそういった気持をもって仕事に励み、営業など、熱心に取り組んだ。結果、充実感を得て一日を終え、「一端の社会人になれた」、そんな心地がした。

うれしかった。これでいい、何も間違っていない。このまま進めばいい。幸せだ、恵まれている。仕事が充実しているなんて、こんなにも華々しいことがあるだろうか。何も問題はない、これでいい。私は社会人だ!

「素直に、真面目に、会社で働くこと」。もうそれでよいのだ。実際ここ数ヶ月は、仕事に没頭し、そんな自分を誇らしく思う瞬間さえあった。他のことが手につかないほど、夢中になって働いた。このままいけるかもしれない、そう思った。

――それなのに、なぜまたこのように日記を綴るのか? じめじめとした辛気臭い日記を、なぜまた書き始めるのか。戻らなくていい、ここに戻る必要など、どこにあるのか。

自己愛。すべては自己愛なのだろうか。

社会に肯定されることや、他者に認められることではなく、私が私自身を認めたいと思っている。私自身を見つめる私の目線こそが重要なのであって、「愛されることではなく、私が私のことを愛したい」という自己愛が心の中に巣食っている。

自己愛、それは確かにある。――しかし、肝心のその自分というものが、愛おしいと思えるような自分ではない。何をどうやっても救いようがない。生活が安定しようが、仕事が充実しようが、他者に認められようが、自己愛は満たされない。そのくせそれは湧いて出てくるように止まらない。

どうすればいいのかと、またここに戻る。内省などではない。自戒でもない。逃避先であり、また、ここならば私は私を愛せると信じて思いを吐き出し、得られた一瞬の耽溺と陶酔によって、自分そのものを一瞬間忘れてしまえる場である。何とかこれで凌いでいる、慰めている。

結局変わらないのだ。しつこい陰りが付いて回る。そう簡単には変わらない。同じところにまた戻る。