2017年10月27日


10月27日

十月。少し寒さを感じるようになって、自室内で厚手の靴下を履くようになる。もうそろそろ冬か。もう何度目の冬か。

今日は仕事が休みだった。けれど特に何もしなかった、何もなかった。冬用のスーツを一着購入するつもりだったが、わざわざ外出するのが酷く面倒に思われて、また、他者と会話する気力が起こらず、結局、部屋の中で一日中ネットサーフィンを行っていた。

「半意識」という言葉を最近何かの本で読んで知った。意識が半分しかないような状態、ぼーっとしている状態、つまり、生きてんのか死んでんのかわかんない状態のことである。今日の私でいえば、特に興味もないのに延々とネットサーフィンをし続け、なるべく余計なことを考えないようにして、時間の経過にただ身を任せている状態のことである。


二十三時五十分。日記を書き始める。

寒さと静けさは互いに寄り添い、一つになろうとしている。妙に頭が冴え、色々な考えが勝手に浮かんでくる。考えなくてもいいことを考えてしまう。

「幸せなまま死んでいけたら、どれだけ有難いことだろう」

しかし、おそらく死ぬときには幸せも不幸せも存在しない。死ぬときは、死というものしかない。何もかもが無くなるという、一切の「無」。あるいは、一切の「無」だけが「在る」。死ぬときは、そういうものじゃないか。「幸せなまま死んでいけたら――」などと、現実的ではない。現実は、死はそういうものではない。

「幸せも不幸せも、あの世にはもっていけない」

と、そこまで考えが及んだところで、急に馬鹿馬鹿しくなる。そんなこと以前に、生きている意味というものがよくわかっていないではないか。死以前の問題である。「なぜ私は在るのか」がよくわかっていない。生きている今現在の、その不確かさこそが、私の向き合うべき問いであろう。

「未来はどうなるかわからない。いや、その前に、今がどうなっているのかわかっていない」

“生きている意味”などという青臭い言葉を使うと、「はなからそんなものは無い」と云う人が現れて、彼は続けて「それは生まれた理由がないことと似ている」と云う。

わかっている。そんなことはわかっている。

「しかし、生きている意味を感じたことが、過去になかっただろうか? そんな瞬間が、人間にはあるのではないか?」

静かな夜は、考えなくてもいいことを考えてしまう。過去と今を比べる、生きている意味があるのかを考える。それが愚かで無意味なことはわかっている。わかっているけれど、考えてしまう。感情が、心が、意識が、「生きている意味」という存在しない意味に捉われてしまう。なぜか? なぜなのか?

「そんなこと考えている暇があったら行動しろ、行動してから考えよ。考えて出る答えなどないのだ」

これは今日、ネットサーフィン中に見かけた言葉であるが、それに対して込み上げてくる反発心は一体何なのか? ある種の嫉妬心か?

……何にせよ、暇だから考えてしまうのだ、暇だから。でも、特にやることがない。実際、今日も何もなかった。明日以降も特に何もない。

気づけば時刻は深夜一時二十分。酒を飲み、たいして疲れてもいない肉体を無理やり疲れさせ、酔わせ、寝ようとする。次の休日は必ずスーツを買いに行こうと思いながら。