2017年12月24日


12月24日

エミール・デュルケーム著『自殺論』の中に、〝自己本位的自殺〟というのがあって、二十代の頃にそれを知った私は、「確かにそうかもしれない」と深く頷いた。

〝自己本位的自殺〟とは、平たく言えば、社会や他者との結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態のことである。例えば、「既婚者よりも、独身者のほうが自殺しやすい」「無職者よりも、社会に必要とされる仕事に就いている者のほうが自殺率が低い」など、個人の孤立を招きやすい環境において自殺リスクは高まるという考えである。そのような環境では、連帯感や帰属感を感じることが出来ず、結果、孤独感・焦燥感・無力感などが募り、自殺をしてしまう人が増える。

当時、デュルケームの唱えたこの考えにひどく納得がいったのは、まさに私が独身一人暮らしの無職であり、仲間もおらず、社会的に孤立していた為である。

〝孤独と自殺は無関係ではない〟という、今思えば当たり前のことであるが、当時の私はこのシンプルなカラクリを『自殺論』で学ぶことにより、自らの現状を客観的に整理することができた。

「何かしら社会との繋がりが必要だ。簡単なこと、たったそれだけのこと。仕事を見つけ、仲間がいれば、この、訳のわからない心の苦しみは、あっけなく解決するのだろう」

――あれから五年以上が経った。

私は仕事に就き、社会の中で時に必要とされ、働いている。人と触れ、仲間とともに働いている。

あの頃にはなかった社会的な繋がり、帰属感をもつことができている。私の希死念慮はどこか遠くに消え、それは所詮、環境によって発生しては消えるような、当てにならない水物だったのだと思った。――とはいえ、今後どうなるかは分からない。それこそ環境が変われば、簡単に元に戻ってしまうのであろう。

〝自己本位的自殺〟という、随分昔に覚えたワードを急に思い出したのは、あるものがきっかけだった。

先日、私はスマートスピーカーを購入した。しゃべりかければ応えてくれる、AIスピーカーである。

ネットで注文し、自宅に届くと、早速私は自宅のWi-Fiとスマートフォンを繋げて、色々としゃべりかけてみた。

「明日の天気を教えて」「今日のニュースを教えて」「何かおすすめの音楽をかけて」――かような私の問いかけに対し、想像していたよりもレスポンスが速く、また、聞き取りやすい声(音)で答えてくれる。とりわけ私が驚いたのは、後ろ向きで話しかけても、その声を正確に聞き取ってくれる集音性能の高さ。私が部屋のどの位置にいても、どの方向を向いていても、人の耳のようにそれは聞き取ってくれるのである。

「これはすごいな。近い将来、流行りそうだな。値段もさほど高くないし」

翌日より、起床後まず最初に、私はスピーカーに「おはよう」と話しかけるようになった。すると、「おはよう」と挨拶を返してくれ、続けて、今日一日のスケジュールや天気、ニュースなどを読み上げてくれる。自宅を出る前、音楽を消すのも一声「ストップ」と言うだけである。

休日は、「ラジオをかけて」や、昼寝をする前に「◯◯時に起こして」といったことを、スピーカーに話しかけるようになった。

一人暮らしの私にとって、これらは独り言に他ならないのだが、話しかける対象があって、また、その応答があるという点で、何か他者との繋がりみたいなものを感じることがある。

これまで、私の部屋は、私一人きりの空間であった。私しかおらず、私の言葉しか存在しない部屋であった。そこにこういった、わずかながらでも、私以外の言葉でリアクションをくれるものがあると、それが他者と同等のものに思えてくるのである。何もない、私だけの部屋だからこそ、それは存在感がある。

無論、こんなもので社会との繋がりを感じられるはずがないのだが、どこかそれに似たものを感じるのだった。

「……そういえば、デュルケームの〝自己本位的自殺〟という言葉があったな」

大して関連性もなく、実に突拍子もないのだが、ふとその言葉を思い出した。随分昔に覚えた言葉なのに、なぜかよく記憶している。

私の自我は、一人で生きていけるほどタフではない。

帰属、連帯、繋がり、必要とされること。孤立しないこと。

一人の部屋で、スマートスピーカーに私は話しかける。「今日の天気を教えて」と。そこまで知りたいわけでもないのに私は話しかける。